MATSURI まつり事

公共団体まとめ 

※表紙の下!の、ココに「INDEX」を作成予定
 

眼差し or 視点


全体で括ると、まったく「同じ場所、同じ時間」に参加していても、そのヒトの立っている「視点(=立場)」が違うと、その風景は「まったく違ったもの」になる

例えば、野球の試合

グラウンドの中に居ても、選手として出場しているのか(それもレギュラーか、あるいはサブか)、あるいは、マネージャーなどのスタッフで関わっているのか
その前!?に、どっちのチームで出場しているのか?

ベンチでは、監督なのか、コーチなのか
同じ「コーチ」でも、分業が進んでいれば、何を担当しているコーチなのか

審判でも、主審か、あるいは副審か
それなら、どの塁審か、はたまた最近はあまり生息しなくなった、どっち側の線審なのか

試合は、誰かが記録を取らなければいけないから記録員
球場全体の試合進行をしなければならないから、アナウンサーや誘導員も必要
ジュースなんかの販売員もいる...etc.

観客席でも、バックネット側にいるのか、一塁側か、あるいは三塁側か
はたまた、外野でも、ライト・レフト・センターの、どの「側」にいるのか
その上に、前の方か、後ろの方か、はたまた、その中間なのかの、区別もある

「何かを判断しなければいけない」場合なら、出来るだけ!色んな視点でモノゴトを分析したいもの
...それこそ「トンボのメガネ」な複眼でモノゴトを判断しないと、本当の「理」あるいは「道」は見えては来ない

その『モノゴト』の、何処(どこ)を「同じ」とし、あるいは何処を「違う」に分類したかで、そのヒトが「何処に居る!」のかが、見えてくる
また、その「表現 or 説明」の仕方、あるいは「報告 or レポート」の仕方によって、その本人が「どう考えている?」のかが、浮かび上がってくる

その上、それによって、そのヒトの中で、モノゴトが「キチンと整理されているのか?」あるいは、的を得てない「適当(or イイカゲン)」にしか考えていないかも、分かってしまう
それ以外にも、その場所&時間を表現する、どんな「言葉や言葉使い」を選ぶかによって、そのヒトの「ヒトとなり」が解る

そこには、ある種の「個性」というものが紛れ込むが、その言葉の端々に、そのヒトの「視線の在り方」が見え隠れする
いくら言葉が「丁寧(ていねい)」っぽくても、ココロの中で「相手を見下している」のであれば、慇懃無礼(いんぎん・ぶれい)な影は、相手にも伝わってしまう

それは会話をしているときであれば、そのヒトの「並べる言葉だけ」ではなく、息遣いや、言葉の区切る場所、それこそ「最初に持ってくる言葉」は何か?
あるいは、その会話の「全体のまとまり」で、最初と最後に何を持ってきたか?で、その「ヒトの全体像」が浮かび上がってくる
文章にしても、So too

だから、面白い!んだけど、そうやって「観客席」あるいは「報道席」にばかりも、居られない

この世は、みんな参加している
モノゴトを、テレビの向こうでの「出来事」とばかり思っていては、いつの間にか、自分も巻き込まれている!「出来事」までも、単なる評論家の視点でしか見ていないことになる

「自分」に直接、火の粉が掛って来てから考える

それでは、間に合わないことって、たくさんある
そのときになって、やっと「当事者として」モノゴトを考え始めても、すでに遅し!である

常に、色んなアンテナを立てて、色んな「モノゴト」を自分の中で、整理整頓して置かなければ、判断を誤ることになる...