... は、人間が「歩くこと」を基本としていた頃は、色んな「実際の歩く道」を通って、直接「会うこと」&「話しをする」しかなかった
そのときは、「言葉」だけではなく、それ以外の判断材料(ジェスチャーや、言葉の音のニュアンスなど)が有ったから、色んな間違いや勘違いは、今の時代ほど無かったハズ(≒蓮)である!?
また、『道』そのモノも、人間が「歩くための道(≒馬や牛も有り?)」しか無かった!から、「刻(≒時)」の流れも緩やかだったし、色んなことが「伝わること」にもタイムラグが有った...
だから、逆に、物理的に遠い!場合は、単純に「理解し合えない」から、意識する範囲も自ずと狭かった??
ゆえに、近くに居なければ「意志疎通」は出来なかったし、モノゴトを考える場合、その「それぞれが想像出来る範囲」の中で考えれば良かった...
それこそ、色んな『環境』が牧歌的に緩やかに進み、
「それぞれが、それぞれのために、それぞれのことを、それぞれの手で、それぞれにやって居れば良かった」
そして、現代は、その「道」に関しても、色んな経路が有り、関係性に関しても、色んな繋がりが、混在する世界になっている
また、自己表現の方法も多岐に亘っていて、「結局、貴方はどれ?」あるいは「本当は、誰なの??」な状況に在る
貴方へと続く「道」 ... に関しても、色んな方法、手順、やり方がある
確かに、「直接、会うのがイチバン良い!」に決まっている !?
... かも知れないが、何でも関んでもそうでなければ!と言えば、すべてのことを、牧歌的な世界に戻さなければイケなくなる
もう、その時代には戻れないのも「事実である」し、それこそ、今までの「人類の積み重ね」を否定するほどの、理由も無い
単に、色んなことを「乗り越えて行けば良い」だけである
馬鹿もハサミも、原子力も使いYoh!
今まで、人類は色んな「道具」を創って来たし、そのすべては、使い様である
「毒」と言われるモノすら、使い様では「薬」になる
それを、DO!使おうとするのか?
最後は、その「ココロの有りYoh!」が問われている
「道」そのモノは、それぞれが、それぞれの、それぞれの足で、それそれに歩き、その後を誰かが通ることが出来るYoh!に、目印やアイコン!?を付けた痕跡
それは、その向こう側に何かが有る!ことの道程
その「向こう側」を理解できれば、何も恐れる必要もない!
最近は、オフィスよりも、ココに居ることが多い
私は生(≒活)きてますの「生存証明」は、こちらで発行しています!?